自分で問題設定し、
自分で考え、自分で採点。
自問自答ノートで成長する
静岡のビーナス。

柴田 百恵選手

PROFILE

柴田 百恵選手

静岡県浜松市出身 1999年11月4日生まれ 静岡県立浜松商業高校卒業
ボートレースが好きな家族の中で生まれ育った影響もあり、幼いころから選手に憧れを抱いていたという。高校入学時には進路を決めていたが、その一方厳しさでつとに知られた吹奏楽部に入る。朗らかで、言い訳や出し惜しみのない人柄に人気が集まっている。
「凡人だけど、愚直にがんばれるのが素質」と話す静岡支部期待のビーナスである。

インタビュー動画

ただひたすら、まっすぐ進もうとした

ただひたすら、まっすぐ進もうとした

やがて70年の歴史を刻もうとするボートレース界は5000名を超えるプロレーサーを育んできた。それはそのまま個性の宝箱のようだ。
当然、選手になるプロセスも一様ではない。少女時代に水上を滑走する夢を抱いた柴田百恵はどのようにして現実にしたのだろうか。

柴田百恵は1999年11月4日、静岡県浜松市に生まれた。ボートレースが好きな家族の中で育った影響もあり、幼いころから憧れを抱いていたという。物語は小さなきっかけから始まる。

小学校の時は金管バンド部でトランペットを吹き、中学・高校は吹奏楽部でクラリネットを担当した。高校は、吹奏楽をはじめ、野球や陸上で名高い県立浜松商業高校である。気軽に楽しめる部活動ではなかった。その厳しさはつとに知られている。生半可な心構えで活動できるものではない。

そんな演奏活動の魅力について…、「見ている方々が感動してくれることがうれしいですし、練習から本番までの努力の過程も好きでした」と話す。
柴田百恵は音楽活動を通じプロセスの大切さを身に刻んできた。皆でひとつの音楽を創り上げるための準備や計画や練習といった過程の醍醐味を感じ取っていたのである。

演奏を結果で論ずるのは軽薄である。コンクールの金賞受賞を祝福するとき、結果としての金賞を知っていることよりも、そのときの演奏を聴いていることにこそ価値がある。演奏はプロセスであり、金賞は結果なのだ。

プロレーサーとしての資質をこの時代に養っていたと言えるのだが、実は、高校入学前からボートレーサーへの志を固めていたのである。決めたのは中学3年生の時だ。ボートレース浜名湖のスタンドで鎌倉涼の女子戦優勝を間近で見たのだ。鮮やかさや存在感、そして伝わってくる感動に胸を打たれたのである。

つまり、浜松商業高校入学は「仮の姿」と言っても過言ではない。…が、わざわざ厳しい吹奏楽部を選択している。「ボートレーサー志望だから…」と制約の少ない方を選択するのが普通であるが、そうはしなかった。できることをまっとうする気構えがあり、言い訳をしない人物であることが分かる。力の出し惜しみすることもない。

凡人だけど、愚直にがんばれるのが素質

凡人だけど、愚直にがんばれるのが素質

入学前から「ボートレーサーになる!」と決めていたのに、あえて厳しい吹奏楽部を選択した柴田百恵。
当然、時間的な制約を受けることになる。
浜松商業高校吹奏楽部は文化部ではない。体育会である。
そもそも演奏家は身体を使う。東京芸術大学の渡辺健教授(ピアノ)は「私たちはアスリートと一緒。休めば休んだ分、演奏の技量が落ちる」と話している。

つまり、ボートレーサーを目指しながら休めない世界に飛び込んだのである。

「部活を終えて帰宅してからがボートレーサーになるための準備の時間でした。夜10時過ぎくらいからです。勉強はもちろんですが、ジムに通ったり自宅で身体を鍛えたりしていました。私は凡人。これといって突出したところがないんです。握力も22キロくらいしかなくて…」と話す。
スポーツの世界で、ポテンシャルという言葉を用いる「素質面」では明らかに劣っていたというのだ。

だから、練習した。
だから、準備した。

柴田百恵の「素質」はそこにある。

自問自答を繰り返すノートの存在

自問自答を繰り返すノートの存在

柴田百恵は3回目でボートレーサー養成所の試験をクリアする。
1回目は1次試験で不合格
2回目は3次試験まで進めたが、面接がうまくいかなかった。
「本気度を試された感じがしました。複数いた面接官の方々に気圧され、気持ちが揺らいでしまいました」と回顧している。

そこから、あれほどなりたいと思っていたボートレーサーへの憧れとは何だったのか…、自分自身と向き合うことになるのである。「半年かけて気持ちの整理をした」のだ。

柴田百恵は、思っていることをノートに書き出した。
その中には「なぜボートレーサーになりたいのか?」という難問も存在していた。自分で問題を設定し自分で回答しようとしてきたのである。

余談だが、大学教授の中には「自分で問題を設定し、自分で回答し、自分で採点せよ」という試験を課す者がいる。おかしい感じがするが、実はまったくおかしくない。
研究にしても経営にしてもスポーツにしても、最先端にいる者が普通にしていることである。
「自分で問題やテーマや目標を設定し、自分で達成プロセスを考え行動し、自分で結果に対する評価をして次につなげる」のだ。

まだ幼さが残る10代のころから、そうしたことが天然自然にできたのである。

「学校でクラリネットを吹いていたら、父が合格を知らせに来てくれました。2年生の時です。入学の時から先生にも友だちにも伝えていたので、みんな喜んでくれました。先生はバンザイしてくれましたし、涙を流して祝福してくれる友人もいました。私は環境に恵まれていたと思います」としみじみ語る。

高校を中退して入った121期は、「やまと学校」から「ボートレーサー養成所」への転換期だった。1年の真ん中で切り替わっている。

そこでもまたノートが活躍する。自問自答ノートである。
「決してうまくなかったですし、できないことも多かったです。操縦も苦手で必死でした。私たちの期は35人入って卒業は25人。試験でふるい落とされることもあるんですが、いつもギリギリ。まったく余裕がありませんでした。自分は吹奏楽を通じて仲間と協調することを学んできたのに、負けず嫌いな人が多くてとまどうこともありました。とにかく、一日一日がとっても長く長く感じられ、耐えるしかない1年間でした。…でもノートだけは書いていたんですよ」と教えてくれた。

「自分で問題を設定し、自分で回答し、自分で採点する姿勢」があったからこそ潜り抜けることができた関門だと断言できる。

柴田百恵は2017年11月14日、ボートレース津でデビューする。17歳であった。夢がほんとうの現実になった瞬間である。

プロセスこそ本質であり、共感の泉

プロセスこそ本質であり、共感の泉

自問自答を繰り返すノートはプロレーサーになっても続いている。
当然だろう。次へ進めば進むほど大きな壁に突き当たるからだ。考えること、取り組まなければならないことは多くなる。
「とにかく先輩方とレベルが違うのでそれを埋めないといけないんですが、なかなかやり方が見いだせないんです。どういう練習をしたら上手くなるか考えてやってみては、また考えての繰り返しですね。前よりもいいレースができるよう一生懸命取り組むしかないと思っています。目の前の一走一走に集中ですね。…師匠からもそう教えられています」と話す。

柴田百恵の師匠は芹澤克彦(83期)。浜松市出身の女子レーサー鈴木成美の紹介だという。
芹澤克彦は人格者である。
相手によって態度を変えることがない。若い人にも年配者にも礼儀正しい。それはそのままレースに表れている。戦いは実直でトリッキーなところがない。
「芹澤さんからは、事前に出走メンバーをみてあれこれ考えてもしかたない、と教えてもらっています。誰を走るかではなく、どう走るか…だと」。

「誰と走るかではなく、どう走るか…」は至言である。

「どう走るか…」とは演奏と同じ。プロセスそのものである。
そして、感動はそこにある。

「どなたでも、強い気持ちがあって行動がともなえば選手になるチャンスがあると思います」と語る柴田百恵。
それは、妥協なき厳しいレースという舞台の「共演者」を求める声に聞こえてきた。