ファンのイメージや期待通りに走りたい。
ワンチームの一員として
自覚あるアスリート。

飯山 泰選手

PROFILE

飯山 泰選手

長野県茅野市出身 1978年2月23日生まれ 東海大附属第三高校~現・東海大附属諏訪高校卒業
1997年11月の初出走以来、攻めるレースでファンのハートをつかみ続ける東京支部の中軸は、福岡と浜名湖の周年記念のほか、関東地区選手権(戸田)のタイトルを取っている。46期通算でA1級37期という驚異的な成績の背景には、ファンが期待する「絞りまくり」敢行の意志が存在している。「ファンのためのレース」に徹するナイスガイだ。

インタビュー動画

F1ごっことゲームセンターからはじまったボートレーサーへの道

F1ごっことゲームセンターからはじまったボートレーサーへの道

ボートレース場は全国に24場ある。当然のことながら、レース場のない地域ではその面白味に触れる機会は限られてくる。
いま、ボートレースチケットショップ(BTS)が各地に設けられているが、長野県のようにBTSがないところもある。その長野県出身レーサーが飯山泰である。

飯山泰は長野県茅野市の出身だ。
茅野市は、諏訪盆地の中央に位置し、岡谷市や諏訪市などに隣接している。諏訪湖も近い。また、諏訪大社社殿の四隅に建てる大木を切り出し、里に引き回す「七年に一度の天下の大祭・御柱祭」はつとに有名で、茅野市も関わりが深い。次回は令和四年に執り行われることとなっている。
「自分も中学のときに里曳きしたことがあります」と話してくれた。

大自然に恵まれた環境の下、飯山泰はのびのび育った。
「近くのお寺で鬼ごっこをしたりF1ごっこをして遊んでいました」と振り返る。
1978年昭和53年2月生まれである。
少年期がF1全盛期と重なる。1994年、レース中の事故で亡くなった「アイルトン・セナが大好きだった」という。
「お寺の庭にコースをつくって遊んでいました。ヘアピンカーブなんかもつくりましたね」と話すように、実に子供らしい。

野球をやったのもごく自然な成り行きだった。ほとんどの男の子がするスポーツである。
「8番ライト」は高校に入っても野球部を目指す。
…しかし、高校では選手になっていない。マネージャーに名乗り出ている。
「入部早々、監督からマネージャーをやる者はいないかという問いかけがあったんですが、身体も小さかったし、みんなプレーヤーを目指しているだろうから僕が裏方をやろうと決断しました」という。
「ノックをはじめ、お茶汲みやスコア付けなどを担当することで、助け合うことや協調性、皆がひとつになることの大切さを学んだ」という。
スタンドプレーのない実直な人柄は、茅野の大自然と家族や仲間たちが育んだのだろう。見渡せないほどの連峰のようにスケールの大きな人物である。

そんな飯山泰のボートレースとの出会いは衝撃的だ。
ゲームセンターなのである。
当時流行っていたメダルゲームの中にボートレースゲームがあった。
実在する一流選手のプロフィールが紹介される方式のものだった。
ゲーム機には水が張ってあり、実際にボートが水の上を走った。ゆっくりではあるが…。
そこには「“今村豊”とか“上瀧和則”の名前が出てきた」のだ。
競馬のジョッキーにも憧れたことのある飯山泰の選択肢としてボートレーサーが加わった瞬間である。

人生の流れに竿をさす

人生の流れに竿をさす

その後、ボートレーサーに関する資料を手に入れたり、本栖の訓練を見学したり、ボートレース多摩川で実際のレースを見るなどの機会を得ている。訓練見学が初めての「実物」体験だった。
「確かに見ましたが、何をやっているのか分かりませんでした。厳しい訓練をしているとも思わなかったんです」という。
ただ、モーター音には心躍ったという。
「山あいの静かなところで育っていますから、それが驚きでしたし憧れをもつようになりました」と振り返っている。かっこよさを感じたのだ。

それでも、「子どもらしく」「少年らしく」「青年らしく」成長してきた飯山泰である。自然に進路は決まろうとしていた。系列大学への進学である。推薦で入ることは容易で、準備も進んでいた。当たり前の流れだった。

…が、飯山泰はここで人生の流れに竿をさしたのである。推薦を辞退したのだ。
周囲はとまどった。いや怒りをぶつけてきた。
「何を考えているんだ」
「推薦枠をとるためにどんな苦労をしていると思っているんだ」
「お前が行かないことで後の人間が困ることになる」

野球部で自ら進んでマネージャーを志願したほどの飯山である。翻意してもおかしくなかったが、この時ばかりは抵抗した。どうしてもボートレーサーになりたいという気持ちが強くなっていたのだ。

「お前がよくよく考えての決断なのだからいいと思う。がんばれ!」
野球部の大田茂監督は、意志を尊重し応援してくれた。
その人間性を最もよく知る存在だからこそ決断を理解してくれたのだ。

そして一発合格を果たす。高校卒業後だ。

「体重が63キロあったので、とにかく走りました。走れるだけ走りました。ずっと走っていました。八ヶ岳に向かって走っていって折り返すタイミングを間違えたこともありました。街灯も何もない道路はほんとうに真っ暗で足元さえ見えません。怖かったです」と懐かしんだ。
目標だけを見すえていた若者は、わずか3ケ月で11キロの減量に成功する。
そして合格するのだ。

本栖よりも寒い地で育ち、野球で鍛えた心身はほんものである。
それに加え素直さが持ち味。困難に直面しても「こういうものなんだ…」と受け入れることができた。
飯山泰は、本栖の厳しい訓練に耐え81期生としてプロデビューする。
1997年11月12日多摩川である。

ファンのイメージや予想通りに走りたい

ファンのイメージや予想通りに走りたい

やがて選手生活は四半世紀になろうとしている。仲間を大切にし周囲のため奔走していた若者も40代半ばになった。個人競技の世界で成果を積み上げG1タイトルも3つ取っている。
飯山泰は大きく変わったのだろうか…。

「変わっていません」。これが回答だ。

「ボートレースもチームプレーだと思っています。選手だけで成り立つ世界ではありません。レース場の運営者をはじめ、審判員や検査員、新聞・専門紙の記者の方々、テレビ関係者など、関わってくださるすべての方が当事者だと思っています。ただ役割が違うだけ。選手はファンの期待に応えんと走ることが役割だと思います」とハッキリ答えた。
選手とマネージャーの関係性を身に刻んできたことと視野の広さは無縁ではないだろう。

そして、その視野の広さはファンに対しても向けられている。
「ファンの期待に応えたい」という気概だ。

「自分はファンのためにレースをしていると思っています。飯山はこういうレースをする、というイメージや予想通りに走りたい」のだ。
そこには「自分がしたいレース」は存在しない。
「ファンが見たいレース」だけがあるのだが、その「ファンが見たいレース」は飯山自身が作り上げてきた攻める競走である。
アイルトン・セナに憧れレースコースをつくって遊んでいた少年の心がきっとそこにはあるだろう。
だからこそ「自分は変わっていない」と言えるのだ。

そのカタチは「絞りまくり」になって人の心に刻まれている。
絞ってまくることで、自分の外側艇にチャンスを与えてしまってとしても構わない。そういう展開さえファンは期待しているのだから…。

現代ボートレースであまり見られなくなった「全速スタートで踏み込み内側艇を準に叩いていくスタイル」はこうして現存しているのである。

スタイルはある。しかし凝り固まらない

スタイルはある。しかし凝り固まらない

このように一貫性のある生き方をしている飯山泰だが、頑固一徹ではない。むしろ柔軟性を大切にしている。新しいものを否定しない。
「凝り固まったらいけないですし、成長できないと思っています」と語る。
例えば、ボートの乗り方や操縦方法について、後輩からも学ぶし研究もする。マネから入ることもある。「何でもやってみようということ」なのだ。

趣味としている自転車や写真も根っこは同じだろう。
「峠道にタイムアタックして記録が出ると、自分の成長を感じることができます」とさえ言うのだ。
登り専門である。帰りはスピードを上げず安全にゆっくり下ってくるのだという。

カメラには日常の風景を収めることが多いという。「四季の花など季節の移ろいを撮ることが多いです」と話してくれた。

ともすれば、押しが強く、強面(こわもて)な者が重んじられる社会にあって、飯山泰ほど世界観が大きく自然体で優しい人物はなかなかいない。