the INTERVIEW

ボートレースの世界にハマって、だんだん勝てなくなって、それでも走り続けたい理由がある。

 ボート界きっての技巧派と呼ばれる烏野賢太。若い頃はエグるような鋭いモンキーターン『賢太スペシャル』を武器にSGを走れば2回に1回は優出していた。自らのボート人生を振り返る年齢になっても、まだ進化を止めようとはしない。その根底に流れるものは何か。そこにマスターズ世代の強さを読み解く鍵がある。

(インタビュー&構成/『マンスリーBOAT RACE』編集長 石井誠司)

うの けんた
1967年(昭和42年)12月20日生まれ。徳島支部・60期。
1987年7月、鳴門でデビュー。94年11月、児島・周年記念でGI初優勝。2001年3月、尼崎・クラシックでSG初優勝。
 「波乗り賢太」と言われるように荒れ水面に強い。「花の60期生」の1人で、同期は倉谷和信、濱村芳宏らSG覇者に、選手会長の上瀧和則などトップレーサーが多い。

マスターズは新鋭戦のような感覚

 マスターズで走るのは今回が2回目です。マスターズは新鋭戦を走っていた頃の感覚に近いものがありましたね。
 お祭り要素の濃いマスターズは普段以上のレースをする人もいて、誰がどこに来るのか予測できません。艇が寄ってくるタイミングや、レバーを止めるタイミングが違い、リズムが合いませんでした。それで優出できなかったのだと思います。今までに何度も味わっているので、想定外には慣れていますけどね。
 来年からは年齢制限が45歳以上になるので、メンバーも濃くなるでしょう。来年来るのはSGを獲った人ではなくて、SGで走っている人です。レース形態も変わると思いますよ。

バイクの遠征資金稼ぎにボート選手を目指す

 学生の頃は、漫画『バリバリ伝説』や映画『汚れた英雄』の影響でバイクに憧れていました。16歳で免許を取って、平日は学校とバイト、日曜日になると鳴門からずっと南にある南阿波サンラインの有料道路(現在は無料)へ走りに行っていました。南阿波サンラインでは、曲がれそうにもないカーブを膝をこすりながら曲がったりして、かなり無茶をやっていましたよ。崖から落っこちそうになって大ケガもしましたしね。
 そんなこともあって、「峠はヤバい」とサーキットで走るようになったんです。徳島県のチャンピオンにもなりました。
 ただ、オートバイはお金が掛かるんですよ。だからボートの選手になって遠征資金を稼いで、世界で活躍するロードレーサーになろうと思っていました。

デビュー前の練習で首と顎を折る大ケガ

 デビューは1987年7月、みんなより3ヵ月近く遅れてデビューしました。遅れたのは、デビュー前の練習で大ケガをしたからです。顎と首を骨折しました。首の第3頸椎と第4頸椎がズレて、第4頸椎の一部は粉砕骨折です。左腕も完全に麻痺していました。

 ところが事故の日の記憶がほとんどないんですよ。バイクの事故ではスローモーションのように事故の記憶がありました。でも、ボートの事故の記憶はないんです。
 事故の後、すぐに首の骨のズレを戻すために「牽引」が行われました。頭蓋骨を引っ張って首の骨のズレを戻すんです。普通は顎から上へ引っ張るのですが、僕の場合は顎の骨も折れています。顎に負荷を掛けられないので、頭蓋骨に2箇所穴を開けて、そこから引っ張るという方法を取ったそうです。覚えていなくて良かったです。
 気がついたのは夕方、病院のベッドの上です。そのときに「自分はケガをしたのだ」とわかりました。左手が凄く痛むんですよ。「痛いというのは神経が通っている証拠。いつまでかかるかわからないけど治る可能性がある」と言われて我慢しましたが、人が通ったときに起きる微かな風でも飛び上がるほど、強烈な痛みでした。
 もっと凄かったのは、顎の手術をしたときです。全身麻酔は生命に関わるということで、局部麻酔で手術しました。歯の1本1本にピアノ線のようなものを八の字に結び、型を取るためにステンレスに結び付けていくのです。歯茎にブスブスと刺していく痛みで血圧が200まで上がり、何度も中断しながらの手術でした。
 事故の記憶がないのが幸いでした。麻痺したのが左手だったのも良かった。ボートに恐怖心を持つこともなく、3ヵ月後に無事デビューできました。デビュー戦の3勝は「あんな痛い目に遭ったのだから、絶対に元を取ってやる!」って気持ちです。それくらい痛かったんです。

上瀧と一緒に見た飯田加一の凄いターン

 本栖の訓練生時代は「やっていける」と思っていましたが、実際に走ってみると次元が違いました。「足が痛い」とか「目が霞む」と言っているオジさんたちに全く歯が立たないんです。バイクやサーフィンなど、それまで勝てないと思うことがなかったから、驚きましたね。すごい世界があるものだと思いました。
 モンキーターンを始めたのは、植木通彦君がクラシック(1993年・戸田)で優勝する1年くらい前です。どこかの記念を走ったときに、飯田加一さんが凄いタイムで勝つのを見ました。ちょうどデカペラが出始めた頃かな。同期の上瀧(和則)と一緒でした。
 「あんなに凄いタイムが出るのはプロペラなのか、ターンなのか・・・やってみるか!」って、早速試運転で試しました。好奇心ですよ。確かにターンをした後に出ていくスピードが違っていたんです。
 「ターン出口が良いぞ」ってことで、それからは試運転や展示でやるようになりました。本番では勝負所でしかやりませんでしたね。新鋭戦でもモンキーをやる選手はいたんですが、競技委員長から呼ばれて「ふざけたターンをするな」と言われることが多かったので。完成度が植木君と違っていたのでしょう。

足の差を見せつけられ「自分が間違っていた・・・」


中道善博と植木通彦の後ろでチャンスを待っていた

 1995年の桐生・グラチャンで、初めてSGの優勝戦に乗りました。その頃が僕の"旬"だったのでしょう。その年のグランプリ優勝戦が、有名な中道(善博)さんと植木君の死闘です。3着を走りながら「2人してコケてしまえ」と思っていましたよ(笑)。その頃は「SGで6回優出すれば、必ず優勝できます」と言っていましたし、本当にSGで優勝を量産できると思っていました。ところがそうは行かず、だんだん勝てなくなりました。上を追い抜いていくときはわかっても、下から追い越されていることに気づかなかったんですね。SG優勝は今のところ2回です。
 プロペラ調整でも置いて行かれました。プロペラ調整というのは、これという答えがありません。皆で試行錯誤して情報を共有するのが正解なんです。でも、当時の僕は「プロペラは選手にとって命のようなもの。気安く他人から教えてもらってはいけない」と思っていましたから、他の人に聞かなかった。自分の力で勝ちたかったし、実際に勝てると思っていました。勝てなくても、たまたまだろうと思っていました。
 勘違いに気づいたのは、1997年の常滑・オールスター(笹川賞)の優勝戦でした。僕がスタートを決めて1マークで差したんですが、先捲りした植木君が前に出て行った。植木君に捕まる隊形ではありませんでした。エンジンが違いすぎていました。
 「自分がやってきたことは間違いだった」と思い知らされました。「散々やってきて、これかい」って思いましたね。
 それからのSGでは毎回、エンジン差を感じながら走りました。優勝戦に乗ってもずっとエンジンで負ける状態が続きました。それでも、もがき続けるしかありませんでした。


「優勝はいただいた!」と思ったこの後、6号艇の植木が前に出た

SGで優勝するコツは「次で良い」という気持ち

 SG初優勝は尼崎・クラシック(2001年)です。10回目の優出で初優勝しました。
 そのときもエンジンは出ていなかったので、プレッシャーはありませんでした。「西島(義則)さんが前付けに来るし、(山崎)智也に捲られたらおしまい。勝てる足でもないし、優勝は次でいいや」と思っていましたね。すると本番では思ったほど進入が深くならず、インから先マイして優勝できました。
 びわこのチャレンジカップ(2003年)で優勝したときは、エンジンが出ていて「勝てそうだな」とは思ったけど、緊張感はありませんでした。クラシックで勝っていなかったら気持ちが入っていたでしょうが、1つ獲っているので余裕がありました。
 あの優勝戦の進入は、心地良いものでしたね。いつもならいろいろ考えるんですが、あのときは特に何も考えていなかった。すると、家族や友達、応援してくれるみんなの顔が浮かんできたんです。その年は体調が良くなくて、走るのが苦しくなるときもありました。家族やいろいろな人に助けられて、チャレンジカップもギリギリでの出場でした。「優勝したら、みんな喜ぶんだろうなあ。今回はみんなのために優勝したいな」って思ったら、肩の力が抜けました。
 タイトルを1つ獲るということは、そういうことかもしれません。勝つときは勝つし、ベストなレースをしても負けるときもあります。「何が何でも獲るんだ」ではなく、「勝つのは次で良い」と思えれば肩の力も抜けます。こればかりは場数を踏むしかありません。


「みんなのために優勝したい」無欲で臨んだびわこ・チャレンジカップで2回目のSG優勝

「乗りやすい」とはサスペンションの利き具合

 バイクやカートをやっていると、サスペンションが重要だということがわかります。ボートでは、プロペラがサスペンションの役目をするんです。選手が「乗りやすさ」と大雑把に表現しているのは、サスペンションのことです。
 サスペンションが上手く機能していれば、水面からの衝撃を吸収してくれるのでグィーンと回れます。利いていないと、ボートが暴れてターンになりません。プロペラ調整の巧い選手は僕がプロペラを合わせるのに3日掛かるところを、1回乗っただけで合わせてきます。感性が違うのでしょうね。
 プロペラは形もあるし、調整方法もあるし、乗り方もあります。そうした総合的な感性がボートには必要です。でもノウハウがないから、何が正解なのか誰にもわからないんですよ。似た乗り物がないから、適性もわからないしね。確かにボートの天才はいるけど、その天才も努力するのがボートなんです。本当、正解のない世界ですよ。

会心のレースの快感にまた走りたくなる

 僕にとって、マスターズは目標ではありません。まだ僕には極めてみたいというか、やり残しがたくさんあります。強い人もたくさんいるので、その人たちに少しでも追いつきたい、追い越したいという気持ちもあります。
 1着を獲るにしても、ただ勝つのではなく、勝った後の気持ちも大切です。良いレースは年に何回もないけど、それまでのキツかったことも忘れるくらい気持ちが良いですよ。「してやったり」と思うのは、6コース差しで優勝したときでしょう。
 一度、そんな気持ちを味わってしまうと止められません。また走りたくなるんですよ。手術の痛みの元もまだ取っていないしね。だから走り続けられるし、この位置にいられるんだと思います。
 今度のマスターズでも、良いエンジンさえ引けば優勝できるチャンスはあります。エンジンが出ていれば「出ています」とコメントしますから、そのときは勝ちに行きますよ。


小学生の頃から全国に支部をもつ有名連『葵連』に所属し、レースがなければ夏の阿波踊りにも参加する。「継承する人が必要だし、価値のあることだと思う。選手を辞めても踊りは続けるでしょうね」
烏野 賢太 選手 データ室
(2017年3月9日現在)

◆通算成績

出走回数 優出 優勝 2連率 3連率
通 算 7,142回 288回 88回 50.5% 66.0%
S  G 829回 17回 2回 37.0% 54.5%
G   I 2,758回 61回 14回 41.7% 58.1%
◆全国成績(最近3節)
17年 3月 多摩川 一般競走 4 3 2 4 1 1 4 3 4 2
17年 2月 鳴 門 GI・地区選 6 1 3 5 6 1 2 1 1
17年 2月 丸 亀 一般競走 2 6 3 5 3 4 2 1 2
◆津成績(最近2節)
17年 1月 一般競走 1 1 1 1 2 1 1 1 1
16年 5月 一般競走 1 2 1 4 4 4 6 1 3 F (帰郷)